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○金峯神社(蔵王権現)と又倉神社(王神様)

社伝によれば金峯神社(明治時代まで蔵王権現)は和銅二年(709年)大和吉野の蔵王権現を古志郡楡原(栃尾市楡原)の地に勧請したのがその創建と伝える。秋葉三尺坊をはじめとする僧兵・修験者数千人の一大勢力であったが、戦に敗れ三島郡矢田に隠遁した。その後仁治三年(1242年)この蔵王(当時は又倉村)の地に遷座したが、その折又倉村の産土神又倉神社と合祀し、蔵王権現の信仰が盛んになるにつれ、又倉神社は蔵王権現の境内社と位置づけられ、又倉村の地名も蔵王村へと変わっていった。
又倉神社は延喜式内社「宇奈具志神社」の論社とされ、信濃川沿いの州浜地に現在も幾社か鎮座する。この地ではその御神威をもって「王神様」と称えており、未開の地であったこの地に農業・漁業・酒造などの技を伝え長岡の里を興されたという。その創始は古代に遡るとされるが、一雄二雌の御神体を一社とし、その同一神が四社ある異風を遺し、頭屋制度のもと民間に巡祀される祭儀「王神祭」が行われてきた。

○王神祭の変遷

古来より連綿と続く王神祭も神仏習合の影響を受け複雑多岐な内容に次第に発展し、また蔵王堂城の支配の下影響範囲も拡大し、江戸時代には当社を中心し二里から三里内のおよそ100の町村が祭儀の執行に携わつた。
四社ある御神体を四つの地域において巡祭し、御神体を賜る頭人(持高三十石以上の者)は足掛け三年間、租税は免除されるが三度の百人の客を招き大饗を行い、月四回の礼拝を義務付けられた。四つの地域とは、
第一の上條王神(俗に太郎殿)町数13村数17 計30
第二の中條王神(俗に次郎殿)町数9村数11計20
第三の下條王神(俗に三郎殿)   村数15 計15
第四の川西王神(俗に乙子殿)   村数33 計33
頭人は一年目に雄神・雌神一対を頂き住居にて奉仕し、二年目に雄神のみを神社に返還する。そして三年目に雌神を神社に返還するのであるが、この三度の折に大饗を行った。
中越の総鎮守と崇められ、信仰面において強い影響力を誇ってきたこのお社も明治時代に至り神仏分離の命を受け蔵王権現から金峯神社と定められ、そして廃仏毀釈の世情の中で氏子分離となり100近くの町村から僅か蔵王村のみを氏子とする指令が出された。祭儀における仏教的要素は排除され頭人制度は氏子分離のため廃止され、また戊辰戦争の混乱の後、金銭的制度的に王神祭を執行することが困難になった。
明治時代の中頃より祭儀の一部のみを執行するようになった。これは頭人が二年目に行う「正常行事」を執行するものであるが、これを伝え現在に至るものである。

○王神祭儀

斎場の奥に御神体を安置し、その周りに玉垣を巡らす。雄神四対と雌神四対が拝殿に出御され、残りの雌神四対は御本殿に坐し雌神は一年ごとに交代する。雄神は三俣の鉾(日鉾)に紙垂を下げたもので鎌王神ともいい、雌神は宿女もしくは榊を結び紙垂を下げ神鏡をかけるが、かつては桶を下げてその中に掛仏を入れてあったので桶王神ともいった。御祭神は雄神は大地主神、雌神二柱はそれぞれ須勢理比売神・沼奈川比売神と伝える。御神体のすぐ前中央に麻笥が一つ、背腸麻笥といい中に鮭の背腸を奉る。古来より越後国の朝貢物として古記に記載されるミナワタである。これは塩漬けにして強壮薬として重宝された。この背腸麻笥の両側に白木の箱が十二並ぶ。これは枠樽といい酒造に用いる搾り機「舟(ふね)」に類似する。この枠樽から竹ぐしを使い紙で胡蝶を摸したものを並べる。これはそれぞれ雄雌があって雄蝶・雌蝶という。その前に三方が十台、飾り餅を奉るがこれを「神宮の餅」といい竹ぐしを使い紙垂をつける。三方の脇に小角という小さな木皿に切り餅をお供える。両脇に一対米俵を奉り竹ぐしに紙垂を下げる。これを祝詞俵(のっとたわら)と言っている。そして神前に向かって左側には祭儀の中で総代が食す切り餅とお神酒を受けるカワラゲ、長
柄の銚子にお神酒が注がれ、三つの盃を奉る。向かって右側には三方に米〈御花米、みかまいという)をお供えし、舞に用いる神楽鈴と扇を供える。さらに両側に一対雛形(ひながた、ひいながたという)を供え雛形行事に用いる。中央に俎板を置き鮭〈雌鮭)を奉る。
祭儀は定刻にまず祓詞を奏上する。
ついで御花米と雛形を用い雛形行事を行う。雛形行事は雛人形の意義と同じく穢れを雛形に託す神事で、現在でも修祓といって神社で祈祷を受ける際大麻を用いお供えものや参列者を祓う神事の原形である。この雛形行事が終わると、三つの盃の一つに一献神酒を注ぐ。
次に年魚行事を執行う。神前中央に奉った鮭を宮司が魚に手を触れることなく、二本の鉄箸と包丁で三枚におろし鳥居の形に整える。これを思念切り(おんねんぎり)という。終わるとさらに一献盃に神酒を注ぐ。
次に祝詞奏上があり、終わると一献を盃に注ぐ。ついで舞を奉納するが、現在は神職の末広舞のみとなったが、かつては頭人が舞ったもので形もなく勝手に舞ったという。
舞が終わると、総代に斎場真央にて神酒三献と切り餅を食してもらう。かつては頭人がこの役をしていたものと思われる。
ついで示鏡行事を行う0向かって左側の雛形の神鏡を取り、袖で覆いながら雄神雌神の鏡と照り合わせる。
この行事はかつては婚交の神秘と人に見せなかったという。
これにて祭儀を納め、御神酒授与の後、御神籖引き。御神籖はかつて頭人を選ぶ際に籖をひいて選んだことにちなんで行っている。ついで来賓者直会を斎館で行う。
現在行われている王神祭は神社を取り巻く様々な環境の変化により縮小を余儀なくされ今に至るが、それでも古代の文化や生活が祭儀に遺されており、その特殊性をもって新潟県無形文化財に指定されている。そして御祭神がこの地に降臨され様々な文化や産業を伝えたという伝説や、この人里が町へと発展し信濃川沿いに長く町が栄えていく様子から「長岡」と名付けられたという言い伝えは祭儀と共に今に生き続け、祭儀の中で毎年復活しているのである。私達のふるさとの風土の原点を祭儀を通して感じることができる、ここに王神祭の魅力があると思う。