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金峯神社 > 由緒について

由緒について

金峯神社(きんぷじんじゃ)は近隣の方々には「蔵王さま」と呼ばれておりますが、明治時代までは蔵王権現(ざおうごんげん)と称し、神仏習合の特色が強い霊場でした。

古代
和銅二年(709年)四月元明天皇の勅願により、北国鎮護のため大和国吉野(奈良県吉野)の蔵王権現を古志郡楡原(新潟県長岡市楡原 現在蔵王社鎮座)の地に勧請したのがその創建と伝えております。大伽藍を建立し、寺院数ヶ寺、修験者秋葉三尺坊を始め三十八坊僧徒・山伏修験者を数千人有する巨大な勢力で、その勢力は北陸から奥州まで及んだという。秋葉三尺坊はこのあと信州戸隠にて修業の後、遠州にて一大修験勢力を築いた(秋葉山本宮秋葉神社)。後に蒲原地方の豪族と戦い破れ、大伽藍寺院は焼失し、仏体を守護して三島郡矢田(新潟県長岡市矢田 現在神明神社合祀)に隠遁する。

中世
仁治三年(1242年)当時越後中越地方の中心として栄えていた又倉村(新潟県長岡市蔵王)の地の産土神又倉神社と合祀して神仏習合の祭祀となった。離散した信者は集まり、蔵王権現の信仰が増すにつれて又倉村の地名は次第に蔵王村へと変わる。南北朝時代には南朝北朝両軍の紛争の焦点となり、神社隣接の蔵王堂城の勢力は北朝に属すが、宗良親王は三島郡王番田(新潟県長岡市王番田)まで進駐し、交渉した結果南朝に入るが、再び北朝に入る。合戦後北朝方が越後全域を支配下に治めた。
上杉家領有の折、天台宗から真言宗になる。蔵王堂城主堀直竒公は平方原に城を移築した。これが長岡城であり、その際蔵王門前町を移住した。現在の長岡市の中心の始まりである。

近世
江戸時代に至り、天海僧正の強い要請により再び天台宗に変わり、寛永二年(1625年)東叡山寛永寺(東京都上野)が建立するとその附庸となった。またこの地を天領とし代官所を設け、当時「(長岡・三島・古志)八十ヶ町村の総氏神」、「越後中越地方の総鎮守」などと崇められた。三代将軍徳川家光公は特に崇敬厚く、御朱印地三百石・御簾を寄進され、また長岡城主牧野家は家督相続の折必ず参詣された。当時坊屋敷十三坊、社家六軒あった。

近代
明治維新に入り神仏分離の指令を受け、神祇と決し金峯神社(きんぷじんじゃ)・御祭神金山彦命と定め、新潟県最初の県社に列する。明治4年(1871年)大小区制が施行されると共に氏子の大半を分離される。明治四十年火災により社殿炎上するが、大正二年建立。昭和二十一年社格廃止される。平成十五年に火災により拝殿全焼し、翌十六年には中越大地震の大被害を受けるも平成十七年に拝殿竣工。平成二十一年御創建1300年祭を斎行する。